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妹の49日に北京ダックを喰った

by Tomohiro OYA

妹の49日に中華街で北京ダックを喰った。3月に妹夫妻と築地の寿司屋に行ったときに‘’次は北京ダック!‘’と指定されていたからだ。

兄妹(兄弟)というのは不思議なもので。幼少の頃はそれなりにお互いの存在を認め合うものだが、この歳になるとお互いの生活があるからほぼ不干渉だし、意識することもない。うちの場合は正月に実家に行くという慣習があるのでそこで年一回顔を合わせるくらいのものだ。顔を合わせても別段なにか特別な会話があるわけでもない。オレなんか酒呑んで寝ちゃうし笑。

結婚しました家を建てました子供ができましたなどといういわゆる人生の典型的エポックメイキングな出来事のときでも”お祝い”で済ませちゃったり(昔電報今Amazon)。たまに顔を合わせるのはあまり明るくない話題のときが多かったりして。親父が病気です、亡くなりました、事業がうまくいきません、実家がボロで崩れ落ちそうです、揉めてます。。。。

妹に会うのはそんな”負”の話題のときが多くて、しかも彼女は”論語と算盤”という観点でいくと””論語”に関してはかたくなで人に左右されない鉄の意志があったけれど算盤”は背中を掻くくらいにしか使わないようなのでイライラする事が多かった。それでも直接文句を言ったり口出ししたりすることはしなかった。大人が自分の責任でやっていることだし、そのことで誰に迷惑をかけていることもなかったし家を追い出されて住むところが無くなったりご飯が食べられなくなったりということはなかったから。そもそも当方、先に生まれてきたというだけで指図できるような実績も何もないから。保証人にもなれない自由人だし。

そんな彼女の病気が発覚したのは2015年の2月だった。パートナーと入籍してたった2ヶ月。好事魔多しと言うけれどそれはあまりにも酷な宣告だった。その後、彼女の城であった花屋は閉めざるを得なくなったけれど由比ヶ浜沿いのマンションに居を移し二人三脚と言えば聞こえはいいが俺から見れば旦那様におんぶにだっこでここまでやって来た。2人の結婚生活は病気と3人での共同生活のようなものだ。いつまで続くかはわからない。けれどいつまでも続いて欲しかった。けれどそうはならなかった。殺風景な深夜の救急病院の病室で”また寿司食いに行くぞ、じゃな”と言って交わしたハイタッチが最後の会話となった。それからあっという間に彼女は逝ってしまった。2018年4月4日12時59分享年51歳。眠るような、静かに幕が閉じていくような安らかな死だった。こういう風に死ぬのなら”死”も怖くないと思った。

翌日から彼女が多くの人に愛され、支えられてきたのかを目の当たりにする。俺からすればワガママで扱いづらいなかなか理解しがたい人物であったけれど、これだけ多くの人に支えられてきたということは近親者では気づかない何かがあったのだろうなと思う。最初に言ったように兄妹というだけで特別な関係ではないのだ。時間や多くのものを共有してきた者たちが特別なのだ。その特別な方々に感謝します。面倒を見ていただいた医療関係者に感謝します。俺の話を聞いてくれた友人・知人・仲間に感謝します。愛し支え一緒に過ごしてくれた夫・田中健二、それを支えた母に感謝します。あなた方がいなかったら彼女はここまで生きられなかったでしょう。本当にありがとう。

救急に駆けつけた時に”来てくれたんだ、良かったありがとう”と妹は普段言わないことを口にした。今でも心に響いています。ありがとう。お疲れ様。よく頑張りました。


Tomohiro OYA
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